第一次選考通過作品詳細
『緩やかな風が吹く街で』 鳴沢 薫
出版社の編集者・北野みずきは、9年付き合った恋人の洋平から「別の女性と結婚する」と別れを告げられる。ショックを打ち消すための夜のドライブでたどりついた埠頭でみかけたサックスホーン奏者沖瑛二に数ヶ月後再会するが、彼は耳が聞こえなかった。最愛の妻を失い隠棲する絵本作家でもある瑛二にどうしようもなく魅かれるみずき。とまどいがちに彼女に接する瑛二とみずきはやがて結ばれる。しかし、瑛二の亡き妻に対する思いを目の当たりにして、彼女と瑛二の間には亀裂が生じる。バックパッカーのベッキーと一緒になった洋平は、瑛二とみずきも一緒の奇妙な関係を経た後、ベッキーが黒人の子を生んだ裏切りに耐えられず自殺する。自責の念からみずきは一度は瑛二との別れを決意するが、心身をボロボロにした彼女を救ったのも、結局は瑛二への思いであった。瑛二も自分を変えようとしていた。絵本コンクールで入賞した瑛二は、取り戻した自分自身の声でみずきにプロポーズするのであった。
選評
30代初めの社会人女性の日常が公私偏ることなく丁寧に描写され、登場人物の造形にも厚みがある。大人の男女の恋愛に重ねて、言葉とコミュニケーションと愛と思いやりの違いによるすれ違いを真っ向からとらえた作品。主人公のみずきが文芸出版社の編集者で言語にこだわる職業であり、瑛二が絵本作家にして演奏家、とビジュアルとサウンドの両方を知りながら、現在は音声としての言葉から隔てられている状態という設定も生きている。聾者であり、筆談であれば英語も出来る瑛二、英語がろくに話せないが瑛二を交えた三角関係が日本語でなりたってしまうみずきと洋平、日本語がカタコトのベッキーのそれぞれの建前と本音がやりとりされる奈良・お水取りへの旅行はその白眉である。「瑛二には聞えない」僧侶の沓音をともに聞きたかったと、密かに慟哭するみずきの言葉に、互いに本当に言いたいことを伝えるために、私たちは真剣に言葉を使っているだろうかという反省をさせられる。ベッキーの裏切りによる洋平の自殺も衝撃的だがその理由は納得できるし、洋平の心を分かっていなかったと主人公が自分を責めてボロボロになっていく記述もリアル。主人公に思いを伝えるためにラストで瑛二がとった行動も、愛の深さを思わせ、ハッピーエンドも心の底から祝福できるものになる。こういう作品を読んで、自分も今日の暮らしから頑張ろうと思う人たちは多いであろうし、またさまざまな困難にめげずに自分らしい生きかたをしようと懸命に働く恋人たちにこそ読んでほしい作品である。
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