第一次選考通過作品詳細

『カルナ』 長月 雨音

地元の大学に通う医学部三年生の隆史は、看護師の母と元医師で今は認知症で自宅療養中の源次郎と三人で暮らしていた。隆史は夏のはじめに、中国人の恋人、文芳(ウエンファン)と別れた。『戦争』という過去がその理由だった。どうすることもできずに最愛の人を失い、生きる意味をも失った隆史は、心安らぐ「雨」によって凍死をする計画を立てた。自殺のためにただ冬の到来を持つ隆史。そんな隆史の周りで不思議な出来事が起きる。源次郎の認知症状が改善を認めたのだ。そして、源次郎は「自分の頭にカルナがいる」と言いはじめる。源次郎はカルナを「哀しみの感情からこぼれ落ちた、名もない感情の一つだ」と言い、カルナのことを知ろうと、インターネットや書籍で調べはじめる。だが、源次郎の症状改善は長続きしなかった。数週間後に発作を起こし、寝たきりの状態となってしまう。隆史は夢で、文芳の姿をしたカルナと出会い、源次郎の死期が近いことを知らされる。やがて寒い冬がやってきた。隆史は些細なことで文芳との懐かしい南欧の鉄道旅行と、別れの場面を思い出す。そして、大きな孤独に包まれた隆史は、ついに計画を実行に移した。


選評

愛する人に出会えたときに得られる、「自分は一人ではない」という幸福感。しかし、その幸福は決して永遠ではない。一緒になった2人は、いつかは必ず別れければならないからだ。つまり、愛を得ることは、同時に哀しみを得ること。幸福な恋愛時代を過ごしたものは、その後に来る苦悩を避けることはできないのである。『カルナ』で描かれるのは、幸福だった後の、死ぬほどの苦しみだ。特に、長い生涯をかけてその苦しみと向き合ってきた源次郎の強さ・優しさは、読む者の胸を打たずにはいられない。また、心では源次郎ただ一人を愛しながらも、家族のために源次郎を選べなかった隆史の祖母の哀しみが、最後には貴く清々しい想いへと昇華されていくラストの手紙が素晴らしい。別れがどんなに辛くとも、誰かを真剣に愛した価値は確かにあったのだと、その哀しみを知る者は実はとても幸福な者だと、『カルナ』は静かに語りかけてくれる。 本作品では哲学・生物学・大脳生理学などの知識が盛り込まれているが、それらを説明する筆者のエピソード選びは的確でわかりやすく、作品の深みを増すのに一役買っている。また、文章が非常に上手く、筆者に描き出される情景が、鮮やかに、熱や匂いまで伴って伝わってくるのがいい。惜しむらくは、隆史が文芳と過ごした幸福な日々が描かれていないため、文芳を失った後の隆史の苦しみの重さが伝わりづらいということだが、そこさえクリアできれば、『カルナ』は、今回の投稿作の中では群を抜いた傑作だと思われる。

一覧に戻る